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zoom RSS 1月17日、神戸へ

<<   作成日時 : 2010/01/21 20:23   >>

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1月17日、1.17ひょうごメモリアルウォークに参加した。
西宮市役所前から国道2号線、山手幹線を経由してHAT神戸までの15kmを歩いた。
デイパックやリュックを背負った人々が国道沿いを行く。
行進に、あの頃多くの人が抱えていた喪失感や必死さはなかった。
それでも、前を歩く人たちのデイパックを背負った姿に、15年前の震災直後の光景がだぶって見えた。

僕は、東灘区魚崎のマンションで被災した。
周囲の家屋は、多くが倒壊したけれど、住んでいたマンションにはある程度の耐震性があったようで、一部に損壊があったものの無事だった。
しかし、同じ区内の僕の実家は、全壊と判定された。
それで、僕の両親とネコが、一時的にマンションの我が家に同居することになった。
西宮にある妻の実家も被災したけれど半壊で済み、妻の両親は無事だった。
地震発生後しばらくの間、僕は自転車で西宮の会社まで通勤した。
道路は、いたるところでデコボコになっていたし、倒壊した家屋によってふさがれていた箇所も多かった。
国道2号線の歩道は、歩行者と自転車とモーターバイクが入り乱れ混雑していた。
交通整理の警官は、歩道を走るバイクを見ても違反切符を切らず、「はよ車道にもどれよ」と声をかけていた。
不思議なもので、そんな状況下でも一定の交通秩序が保たれていたように思う。
歩行者の多くは、デイパックやリュックを背負って歩いていた。
両手が自由になるので、バックパックは便利だった。
僕も食料と水と燃料の確保が日課だったから、定時で退社し、食料を売っている店を探しながら帰る毎日だった。
僕は、罹災によって生じたある問題を抱えていて、その対応にも始終追われていた。

国道2号線の歩道を歩きながら、15年前を思い出す。
けれども、必死で過ごした時間は濃密すぎたのか、却って断片的な記憶しか表出してこない。
風化という言葉はあたらない。
ただ、明日が見えない状況の中で、自分のまわりを落ち着いて見ることが、他の人を見ることが僕にはできなかった。
前を歩く人の背中のデイパックが揺れていたことしか覚えていないくらい、心にゆとりがなかった。

地震発生後、マンションの住人は、不安を抱えて1階のロビーに集まっていた。
不幸なことに、電気製品が頭部に落下したことが原因で1人の方が亡くなった。
マンション周辺の家屋の多くが倒壊していた。
外の県道に通じる道路は、1本しか通行できなくなっていた。
近畿で大きな地震が発生したこと、神戸が壊滅状態にあることくらいしか放送していなかったけれど、ラジオだけが情報源だった。
揺り戻し(余震)があるかもしれないので避難しようという声があがり、まず数人で校区の小学校へ行ってみると、すでに避難してきた人であふれていた。
「子どもの顔色がどんどんなくなっていった。一生懸命からだをさすって、呼んだのに」と泣く人の声に、僕は呆然となった。
避難所は、混沌の只中だった。
自分たちが置かれている状況が、なんとなくわかってきた(まだ、恵まれた環境に居ることも)。
結局、マンションの損傷はひどくないので中にいた方が安全だ、という判断を下した。
いつのまにか、大通りを隔てた商店街で火事が発生していた。
加古川から来たという消防員に要請され、マンションの東側を流れる天井川の水を塞き止めるための土嚢の供出と、その運搬を行なった。
ポンプ車が川の水を汲み上げ、200mほど離れた火災現場に放水した。
夜になっても火の手は収束しなかった。
マンションの廊下に出ると、火災現場の方からほのかな温風が吹いてきたので、火勢が増しているのかと不安になった。
消化剤を撒くヘリコプターの音と投光器の照明が、長い間続いていた。
次の日、海岸のLPGタンクの破損が判明し、ガス漏れの懸念から避難勧告が出た。
僕たち家族は、マンションを出て僕の実家へ向かった。
途中、販売所で新聞を買い、初めて被害状況を知ることができた。
山の上にある実家が見えるところまでたどりつくと、また衝撃が待っていた。
家の下の石垣が崩れかけ、家屋がややねじれた形になって建っていた。

この震災で、6434人が命を奪われた。
そして、大切な家族や恋人や友人を失い、悲しみの淵深く沈められた人がいた。
大切な人も自分自身の命も失わずにすんだけれど、生活の基盤を失った人がいた。
生き残った者は、誰もが天から突然与えられた人生の変化にとまどう間もなく、歩き始めなければならなかった。
しかし、その一歩の踏み出しと歩みの速さには、当然個人差が生じた。
誰もが順調に復興の道を歩んできたわけではない。
再建ならず住みなれた町を離れた人、震災以前に比べ生活レベルが格段に下がった人、癒えない心の傷を抱えたままの人。
地震発生から15年が過ぎたけれど、復興を遂げられない人もいるのだ。
自助努力、自力再建、できないのは自分のせいなのだろうか。
被災した商業地域を区画整理し、新しい高層住宅と商業施設を建設しても、賑わいが戻ってこないのは、元の商店が再建できないのは、なぜだろうか。
メモリアルウォーク終点のHAT神戸にある、人と防災未来センターなど東部新都心を象徴する建物群が、人によっては、ただの箱にしか見えないのはなぜだろうか。
ふだん車を走らせているとあまり気付かないけれど、歩いていると、新しく区画され生まれ変わった衛生的な街並の脇や裏に、空き地が点在することに気付く。
冬枯れの雑草が風に揺れる、乾いた土の空き地が、今もそのまま残るのには、何か悲しい事情があるのではないだろうか。
それは、なぜだろうか。
僕は、そんなことを考えながら歩いた。

メモリアルウォークは、僕にとっては懐かしい町を辿る旅でもあった。
震災によって、町の変化は加速した。
かつての町並をすっかり失った場所もあるけれど、町とはそういうものだと思う。
本山駅、水道橋、有馬道、御影水道路、水道筋、原田の交差点、そしてタカバシの上から生まれ育った岩屋中町、灘南通を見渡し、臨港線の踏切跡を渡って脇の浜へ。
国道2号線の大きな歩道橋からは、敏馬神社の森や岩屋の町、春日野道を望みながら、かつて工業地帯だったHAT神戸のゴールへ向かった。


あの震災で学んだこと

人と助け合うこと。
水の大切さ。
不測の災害への備え(防災・減災)を考え実行すること。
 家の中でケガや致命傷を負わないように、家屋の耐震診断と必要があれば補強を行なうこと。
 家具が倒れにくい配置や固定方法を取ること。
 ライト、携帯ラジオの常備。
 非常食、水を備蓄すること。
 災害発生時の連絡の取り合い方、避難場所、集合場所を日頃から家族同志で確認しておくこと。
 地震保険や共済へ加入しておくこと。


12日に大地震が発生したハイチでは、今も倒壊した建物のがれきの下にいる人の救出作業が続いているという。
いまだ残されている人々の一刻も早い救出と無事を祈る。


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